五日目はデルゲを出て、二度と戻らない。西へ金沙江まで、橋を渡れば向こう岸はチャムドのジョムダ県 — チベット自治区で、この旅がずっと通ってきた州とは別の行政世界だ。そこから道は南へ折れ、川沿いにルオシュまで下る。三か所がひとつの午後に収まる距離にあり、そのあと北へ青海の玉樹へ向かって、行程は終わる。
二本の講義は一日の順に沿う。一本目は朝のデルゲ・パルカン:動いている印刷所であって博物館ではなく、国際的な登録が建物ではなく版木に付いている理由でもある。二本目はルオシュの三か所 — 塚、湿地、磨崖 — をまとめて扱う。三本の短い項目に割らず、ひと続きの川として読むためだ。
川を渡り、それからルオシュへ下る
前の四日と同じ形。車に乗っている人のために書き、ページとして読めるように閉じてあり、出会う順に並べてある。
19 印刷する家 デルゲ・パルカン:1729年、両面に彫られた22万枚の版木、トリカブトの紙、辰砂 — そして登録が建物ではなく版木に付く理由。
博物館ではない — 今も動いている印刷所だ
チベット語で。 Dege Parkhang: par は印刷、 khang は家。文字どおり、印刷する家。
正式名。 もっと長い:「多くの門から智慧が集まる、経典の大いなる宝庫」。この「多くの門」は飾りではない。一つの学派ではなく、すべての学派の書を集めている。
格。 ラサ、ラブランと並んで、チベット世界の三大印刷所に数えられる。古さ、規模、影響力のどれを取っても先に来る。
今も印刷している。 復元でも、観光客向けの見世物でもない。版木が棚から出て、人が立っている場所で刷られ、また戻る。その流れは三百年続いていて、一度も組み替えられていない。
だから一文だけ持っておく。 入る前に: これから見るものは遺物ではなく、生産ラインだ。 これを持っていれば、あとの全部が収まる。
なぜ読み違えられるか。 静かなのだ。機械も、コンベヤーもなく、座ったり立ったりして人が働いている。 静かは止まっているではない — その一文は、どんな形容詞より働く。
ひとりの王、 そして家より古い版木
26年前
着工
またはそれ以前
国の文化財
世界の記憶
| 敷地 | 数字 | 注 |
|---|---|---|
| 敷地 | 1,600 m² あまり | 塀の内側、中庭を含む |
| 床面積 | 5,400 m² あまり | 別の資料は4,100 — 両方が流れている |
| 構造 | チベット式の柱と梁、平らな屋根 | 厚い壁、小さな窓:寒さと風への答え |
二十万枚の版木、 両面に彫られている
| 出所 | 数字 | 何を数えているか |
|---|---|---|
| 文物局 | 217,000 | 現在の公式な数字 |
| 2024年の推薦 | 228,814 | 1949年以前の版木、「世界の記憶」の申請で使われた数 |
| 新しい分を含む | 30万枚以上 | 1949年以降に彫られたすべてを足す |
経蔵の両半分。 「 カンギュル 」と「 テンギュル」。
五つの学派、それにボン。 ニンマ、サキャ、カギュ、ゲルク — そしてボンの経典。 ここでいちばん珍しいことだ。あとで触れる。
医学。 初期のチベット医学書、とりわけ 『四部医典』。
そのほか。 歴史、伝記、詩、詩律、絵画の手引き、天文学と暦。
矢の長さ、 肘の長さ、 拳の長さ — そしてその寸法どおりに刷られる。
図像の版木。 およそ600枚。タンカ、曼荼羅、経典の挿図。言葉ではなく像を載せた六百枚 — この家が絵も刷ることを、ほとんど誰も知らない。

家より古い 二十六年
年数のため。 「デルゲで印刷する」という年を二十六年引き上げる: 版木が先、建物が後。家はすでにあった版木のために建てられた。逆ではない。
形のため。 一枚の版木に三つの文字はこれだけの例だ。目の前にあるのは経典の一ページではなく、書体の判断だ — 三つのどれかが読めれば、読めた。
何か。 全体を赤く塗られ、最も重要な経典にだけ使われる。
見分け方。 棚の上で全体が赤い。ふつうの版木は黒で刷る。
一行で。 赤は飾りではなく、格付けだ — あの赤い棚が、この書庫のショートリスト。


「一枚買えますか」 ここは経典の印刷所で、土産物屋ではない。本は書店で買う。庫のなかで値段を聞かない。
「これは原本ですか」 はい。これは現役の一式で、複製ではない — それがまさに、生きている証拠だ。
「古い印刷の博物館」と呼ばない — 一度も止まっていない。そして「活字みたいに」とも言わない: これは木版で、一ページに一枚、まるで別の道だ。
余談として: 活字は文字を組む。木版はページ全体を彫る。中国は早くに活字を発明し、それでも木版を使い続けた — この部屋がその証拠だ。
木、トリカブト、煤 — そして二組の手
三つの理由、 どれも前より難しい
1729年、デルゲの王が印刷のために建物を建てた。 三百年前に刷っていたものを今も刷り、三百年前の刷り方を今もそのまま使っている。
二行足す:どの宗派にも属さず、五つの学派とボンの経典がその棚に並んでいる。 工程のどの段階も落ちていない — 木は燻して蒸し、紙はトリカブトから、版木は刷ったあとに洗って脂に漬ける。だから三世紀を経ても刷り続けられる。
五つ、 この順で
次に版木
外ではない
顔ではなく
小口を見る
赤い版木
20 ルオシュの三か所 壁が一つだけ残る塚、川沿いに広がる沼、そして仏が彫り込まれた四メートルの岩 — それらを結ぶ唐蕃南道。
ひとつの川、三か所、 四つのこと
Deng Xalong Rizhu
デンマ湿地
ヤンジャオ磨崖
土の塚、 そして名前の四つの表記
公式地図。 Deng Xalong Rizhu。この冊子はこれに従う。
学術文献。 ふつうは Xalong Rezhu。Xalong Rizhu や Xalong Renzhu にも出会う。
なぜ大事か。 ひとつのものに四つの表記があること自体が何かを語る: それは口承と地域の記憶のなかに生きていて、王朝の記録のなかにはない。
1978年。 デンコ県は廃止され、土地はセルシュとデルゲに分かれた。
だから。 「デンコ」で検索しても何も出ない。「ルオシュ」で検索する。 覚えておく価値 — さもないと家に帰って見つからず、私たちが作った話だと思うことになる。
一文で。 「ここが旧デンコで、今はルオシュと呼ばれています」。古い名、新しい名、つながっている。
最も優れた弓者 リンの
弓者。 異名は「リンの雷の弓者」。青い旗を掲げ、戦のたびに最初の矢を放った。
本人の冗談。 「娘たちは俺の肌が黒すぎて好かない。敵は俺の矢が外さないから好かない」 一行で、彼が人になる。
銀の若駒、 紅柄の長剣と呼ばれる剣、 「タイジン」という白い弩、 九つの雷と呼ばれる矢、 毒の舌と呼ばれる槍。
十 二歳 で、デンキョン・ラドデンの娘ダンサ・タシ・ベンジと結婚した。
壁ひとつ、 そしてその周りに完全な環
監視台
ビャクシン
儀礼の壇
洞窟と指揮所
これは叙事詩の層で、 歴史の層ではない
ゲサル。 歴史上の特定の人物だったかは、まだ決まっていない。
デンマ。 同じことだ。
ではこれは何を指しているのか。 地域の記憶が城、的の岩、洞窟、茂みを指し示す — そしてその指し示しの連鎖の背後には数世紀の連続がある。それ自体に価値がある。
考古学的な結論ではない。 「西暦X年、Yという人がここに住んだ」ではない。
これだ: 「ある共同体が何百年も信じ、守り続けてきたもの」 — それ自体が研究の対象だ。
だから。 その層を認めても、参観は壊れないし、嘘にもならない。「叙事詩と地域の記憶」は、確実だという主張よりずっとよく立つ。
北の川を見る、 すると遺跡が自分で説明する
北に金沙江、地平線から曲がって入ってくる。こちら岸には升目のルオシュの畑、 向こう岸にはチベット、ジョムダの雪。
ひとつの川、ひと区画の耕せる氾濫原、ひとつの渡し。 ここに立つ者が回廊を押さえた。磨崖がこの先にあるのも同じ理由だ — 偶然ではない。
「叙事詩のデンマの城」として受け取ることは、地域の記憶を尊重するやり方だ — 何世紀もそう覚えられてきた。
学問は問いを閉じていない。確定しているのは主張の連続のほうだ。この同定の価値は「起きたかどうか」ではなく、 何世紀も記憶されてきたことにある。
川が速度を落とし、 沼に広がる
二つの区画。 ジョンコ と ルオシュ、それに二つの文化遺跡、ゾマラ宮とデンマ博物館。
面積。 およそ38.5平方キロメートル。
地位。 国家4A級景勝地。
およそ3,600メートル — この行程では低い。
低いから木が育ち、穀物が実り、ここの人は自分たちの「江南」の話をする。 それが一日の地理を説明する:なぜ城がここにあり、なぜ町がここにあるか。
一万亩のサジー、 そしてとても臆病な鳥
何か。 サジーは寒さ、乾き、塩に耐える — 高原の川谷の 先駆種 だ。
秋。 実が枝を橙で覆い、青い空と緑の水を背景にする: この道でいちばん写真になる区間。
開けた水面、密な沼の草、水鳥の休む場所、そして夕暮れに金沙江を見る場所。
光の向き。 太陽が川に落ちるとき、 光は空から降りるのではなく水面から上がってくる。「きれいだ」より正確だ。
| ここに記録 | 数字 / 種 | 注 |
|---|---|---|
| 保護鳥 | クロコウノトリ、ウロコアイサ、クロヅル | 国家一級・二級 |
| 野生維管束植物 | 441種、165属、47科 | 植物目録の全体の数字 |
伝承では641年、 文成公主が建立
Gongzhu Drolma、Woxing Drolma、Jiajiama。 最初の一尊が最も崇敬される。地域の言い伝えでは、公主はチベットへ向かう途中ここで止まり、像に印を残したという。
ここも高点。 そこから二つの区画、川、ルオシュの畑が一つの画面に収まる。
歴史の半分。 文成公主が641年にチベットへ入ったのは歴史だ。
伝承の半分。 その年にこの寺を建てたかどうかは宗教的・地域的な主張で、 石碑と文書の問題ではない。
だから。 「伝承では641年に建てた」と言う — この二語は落とせない。落とせば断定になる。
ひとつの岩、 そこに彫られたひとつの仏
| 見るもの | 何があるか |
|---|---|
| 全体 | 岩は高さ4メートル、幅5メートル。坐仏が一体 線刻で (線刻、浮き彫りではない) |
| 寸法 | 幅253センチ、高さ300センチ |
| 宝冠 | 髪は高い髻に結い、 三葉の高い宝冠を戴く。葉には花文、滴形、方形の飾り。 |
| 帯 | 宝冠の帯は 魚尾 の形で終わり、両耳のそばに垂れる |
| 顔 | 短く丸い、額は狭い、眉間に白毫、上まぶたは重い、鼻は大きく丸く鼻梁は彫らない、耳は肩まで、花の耳飾り |
| 光背 | 二重の 楕円の光背 が頭の後ろに。像の背後には二重の円形の身光。 |
| 体 | 首は短く三道。首飾りに三つの丸い垂れ飾り。上半身は裸、肩幅は広く、肩掛けは左肩から右腰へ。腰は細く高く取る。 |
| 手と脚 | 臂釧と腕釧。両手は 禅定印 で腹の前。右脚が上、 蓮華坐。 |
| 台座 | 二重の蓮華。上の花弁は広く、下は細く葉のよう。 |
八世紀中頃から九世紀初頭、 吐蕃帝国の時代
誰に似ているか。 ヤンジャオの作風は、同県の シュバ神山 の石刻群や チャオラムの石刻とよく似ている。
手がかり。 シュバ神山の石刻群には 古チベット語の題記 があり、 ティソン・デツェンの治世に定年できる。だからヤンジャオも同じ時期に置かれる。
2013年5月、 故宮博物院、中国蔵学研究中心、四川省文物考古研究院、陝西省文物局などの合同チームがここで調査した。
セルシュ県で確認されているのは三つ。 ベマ神山 (ルオシュ鎮)、 シュバ神山 (チャンシャゴンマ郷)、 ヤンジャオ村 (マジャ郷)。
この道が 歩かれていた
教科書の道。 西安–西寧–清水河–ナクチュ–ラサ。
セルシュの石刻群。 その線を一マス南へ引く。故宮博物院の羅文華(ルオ・ウェンホア)研究員はこう読む。この南の枝はおそらく ルオシュで金沙江を渡り、そこから高山の台地を東へ、雅礱江の上流へと延びた。
考古学者は、川床に露出した大石の上で石刻仏を見つけた。三葉冠、吐蕃の衣装。それを 金沙江に架かる吊り橋の上から見たのだ。
なぜ川の中に仏を彫ったのか。 石刻は 人に見られるものだからだ。ここに彫った人がいるなら、ここを大勢が通っていた。
五つ、 最初の一つが肝心
面ではなく
下がる
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こと
講義について。 最終日は二講。午前に印経院、午後にルオシュの三か所。ルオシュの講は冒頭に 00 · この日の歩き方 の節を置いている。三か所は、たどり着く順に読んで初めて成立するからだ。
写真について。 この二冊にはもともと写真がない。文章だけで書き、表紙はこのノートのために描いた図だ。ここには写真から複製したものはなく、場所を後から補ったものもない。
着いてから読むもので、日ごとに読むものではない。五つの場所にそれぞれ一冊。